いいね! 炎上

あなたが炎上を見過ごせない理由と、だれもが「いいね!」で順位付けされる社会

(この記事は、ビジネスジャーナルに2014/01/24に寄稿した記事と同内容のものです)

金曜日のプランナーズブログです。アクトゼロの黒沼(@torukuronuma)です。

 昨年は、Twitterを中心にアルバイトの「炎上」事件が相次ぎました。ほかにも著名人の発言に一般ユーザーが敏感に反応して、Twitterアカウントやブログに批判コメントが殺到するのは、もはやネットの日常といってよい現象だと思います。 今回は、なぜこれほど炎上が盛り上がってしまい、また私たちの関心事となってしまっているのかについて考えてみます。その背景には、「誰でも有名になれる」「誰とでも比較される」社会への変化があるのだと私は考えています。

人気YouTuber”ヒカキン”のテレビ進出

年末年始に“テレビ正月”を過ごされた方なら、ご覧になった方も多いと思うのですが、アンファー社のスカルプDのCMに、雨上がり決死隊とセットで「ヒカキン」と呼ばれる若い男性が登場していました。CMの最後に宮迫から「こいつ誰やねん!」と言われ、「その正体はネット検索で」というつくりとなっていましたが、彼は現在日本国内で最も人気を集めるYouTuber(ユーチューバー:YouTubeの人気配信者のこと)のひとりなのです。

 ヒカキン(hikakin)は、ヒューマンビートボックスのパフォーマンスでYouTube上で人気を獲得したのち、日常的に商品レビュー動画などを投稿し続け人気配信者となりました。昨年6月にはシンガポールで行われた「Social Star Award」というイベントでエアロスミスと共演するなど、国内YouTubeを代表する配信者として認識されています。

 YouTubeでは、動画再生数に応じてグーグルより配信者に広告収益の一部が支払われます。海外(とくに英語圏)ではYouTubeから上がる収益だけで、毎月1000万円以上を稼ぎだすYouTuberがザラにいます。日本語の壁があるため、日本人の配信者の動画が世界的に広く拡散し再生数を稼ぐことは少ないわけですが、国内トップクラスのヒカキンくらいになると、国内の視聴者を相手にするだけでも悠々自適で生活に困らない程度には広告収益が上がっているのではないかと推察します。

 いまYouTubeには、彼のような人気配信者になろうとして、配信者志望の若者が押し寄せています。中高生の配信者も多く、なかにはあきらかにヒカキンをロールモデルとしたヒカキンコピーのような配信者も多く存在しています。今回のテレビ進出で、その熱はより加熱していくことでしょう。YouTubeの配信はとても簡単で、スマホ付属のカメラや、ノートPC付属のカメラでもいいし、画質にこだわりたければ数千円ほどで買えるウェブカメラでも十分始められます。誰にでも開かれている、ように見える門なのです。

 ニコニコ動画・生放送でも同様の現象が起きています。ボカロ曲がスタンダードな音楽ナンバーとなった今の10代にとっては、そこでの評価はより社会的な結果を生みます。「P:プロデューサー」「ゲーム配信者」や「歌い手」「踊ってみた」「生放送」に顔出しで登場する無数のパフォーマーは、人気を集めることができれば、ニコニコ公式コミュニティや各種イベントなどを経て、ニコニコというプラットフォームを離れた現実世界においても、自分周辺のコミュニティを豊かなものへと変化させ、一目置かれる存在となるのです。ネット上での人気が、現実世界の評価へと接続されているのです。

 かつての芸能界などでは、そもそもスターとして活躍できる場(例えばテレビ番組など)自体が限定的でとても少なく、さらにはそこに登場するまでの入り口の門自体が狭かったのです。しかし今では、テレビチャンネルや番組数の制限を受けることなく、ネット上で表現可能な場は、爆発的に広がっています。

 しかし、参加するための入り口は広く開かれていますが、競争自体の激しさは昔と変わりません。視聴者は有限です。すべての人に開かれているように見えるこれらのチャンスですが、当然ながら成功と呼べるほどの結果に達せられるのはほんの一握りで、それ以外の大多数は視聴数やチャンネル購読者数で、振るわぬ結果を「見える化」され、序列されることとなるのです。ここに「評価格差の見える化」が起きます。

 こういった現象は、10~20代の動画サイト利用者の若者にだけ、関係のある話ではありません。本格的なネットの一般化が訪れて以来、この評価格差の見える化は、もはや無縁の人はいないといってもいいものです。

「いいね!」の可視化で生まれる「格差」

 Facebookを中心に「ソーシャル疲れ」という言葉が昨年は多く聞かれました。友人の投稿に「いいね!」を押さなきゃいけないのではないか、という強迫観念。そして、友人の投稿の端々に現れる、自分にはない「生活レベル・家庭や恋人・交友関係の広さ親密さ」に接した時に、自分の中に湧き上がる黒い感情と向き合うことなどに疲れてしまったという声です。「リア充」はすっかり一般語となり、自分の持たない「何か」を持ったものに対する怨嗟の念を表す言葉として、共感語として機能している感さえあります。

 今、私たちは「いいね!」に類するさまざまな評価システムの可視化が行われる社会に生きています。ブログを開けば購読者数やブックマーク数やコメント数が、Facebookでは日常投稿につく「いいね!」数やコメント数が、Twitterではフォロワー数やリツイート数が、クックパッドに料理を投稿すればリピ報告の数が、といった具合にあらゆるネット活動のひとつひとつに「評価の見える化」が浸透してしまっています。

 その上でさらに、他者の生活が自然と目に飛び込んでくることによる、自己と他者との「現実世界での格差」というストレスにもさらされています。誰が上で誰が下か、誰が人気者で誰が格下なのか、友人が何を持っていて、何を持っていないか。私たちは日常的にネットと現実世界の両面での格付けにさらされているのです。

 これら「評価の見える化」や「現実社会での格差」は、私たちの心情にどんな変化をもたらしたでしょうか。

 それは、「自分と他者との差異の明確化」なのではないかと私は考えています。 ソーシャルメディアやネット上での個人レベルの情報発信が行われる前は、お互いのことを不完全にしか認識できていませんでした。詳しく知らなかったからこそ、相手は自分と近い・似た存在なのだという「美しい誤解」が保たれていたのではないでしょうか。

「他者との格差」が批判・炎上に拍車をかける

 自分の考えとは相いれない人間のブログやTwitter上での発言を見た時、それを批判したくなる苛立ちの背後に「なんであんな考えの奴が、読者に支持されて人気を集めているんだ?」という思いがないでしょうか。名門大学の学生がバイト先で馬鹿なことをしているのを見た時、「なんでこんな馬鹿が、恵まれた環境でリア充ライフ送っているんだ」という思いがよぎった経験はないでしょうか。

 格差が助長する批判は、持たざるものが持つものに対してのみ有効な議論ではありません。自分が批判対象となっている相手と違うのだということを表明する時、自分が正しくて相手が正しくないという批判の言葉もまた、勢いを増しビビッドなものとなるのです。

 こうして、他者との違いを自覚するほどに批判はより先鋭化して行き、その批判自体も他者から「個人のイメージ判断の材料」にされることを意識して行われるようになるのです。

ソーシャルメディアが私たちにもたらした変化

 ソーシャルメディアの登場で、離れた友人たちの近況をリアルタイムで容易に知ることができるようになりました。Facebookの普及フェーズで、かつての友人たちと再びコミュニケーションが可能になった人は多かったと思います。そういった仲間と久しぶりに飲む時、ソーシャルメディア上で日常的にお互いの近況を知っているから、久しぶりに会ったんだけどまるで久しぶりな気がしないと感じてしまう現象は、割と一般的なのではないかと思います。

 Twitterの登場は現実世界の一部がネット上に溶け出し、誰が何を考えているかに24時間触れられるような、これまでにない情報体験となりました。Twitter以前ではありえなかった、著名人に直接コミュニケーションが取れるというフラットな世界観を私たちは手に入れました。

 YouTubeやニコニコ動画の登場は、これまでテレビや映画を通して楽しむことが主流だった動画メディアにアマチュア制作者による自由な可能性を吹き込み、それまでに見たことがないフレッシュな動画表現が次々登場しています。

 私はソーシャルメディアや動画プラットフォーム、ユーザー参加型のサービスが、この世に出てこなければ幸せだったと言いたいのではありません。数々のメリットとともに現れたこれらのサービスは私たちの人生を豊かにもしているし、ある面では人間関係のありさまをこれまでと違ったものへと変質させたのであり、元をたどれば、この変化は私たちのニーズによって起こるべくして起こった「革命」なのです。評価格差社会は、その革命がもたらした帰結であり、次の変化に向けた経過点にすぎないのです。

 

●株式会社アクトゼロ(http://www.actzero.jp/
企業及び官公庁のソーシャルメディア活用、ソーシャルデータ分析、YouTubeやニコニコ動画などのネット動画プラットフォーム活用で、国内有数のクライアント実績を持つ。

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